正岡 子規(まさおか しき、1867年10月14日(慶応3年9月17日) - 1902年(明治35年)9月19日)は、日本の俳人、歌人、国語学研究家。
名は常規(つねのり)。
幼名は処之助(ところのすけ)で、のちに升(のぼる)と改めた。
俳句、短歌、新体詩、小説、評論、随筆など多方面に亘り創作活動を行い、日本の近代文学に多大な影響を及ぼした、明治時代を代表する文学者の一人であった。
死を迎えるまでの約7年間は結核を患っていた。 from Wiki
名は常規(つねのり)。
幼名は処之助(ところのすけ)で、のちに升(のぼる)と改めた。
俳句、短歌、新体詩、小説、評論、随筆など多方面に亘り創作活動を行い、日本の近代文学に多大な影響を及ぼした、明治時代を代表する文学者の一人であった。
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子規の命日「糸瓜忌(へちまひ)」に寄せる ‐子規の明るい病床六尺‐
朝 粥四椀、ハゼノ佃煮、梅干砂糖ツケ 昼 粥四椀、鰹ノサシミ一人前、南瓜一皿、佃煮、 夕 奈良茶飯四椀、ナマリ節 茄子一皿 二時過 牛乳一合ココア交テ 煎餅菓子パンナド十個バカリ 昼飯後 梨二ツ 夕飯後 梨一ツ これは、仰臥漫録に記されたある日の子規の食事です。 病人が、まあ、よくもこんなに食べられたものだ・・と呆れてしまいますが。。 六尺の病床に居てなお、溢れる好奇心、冒険心、闘争心でもって、 俳句・短歌の研究・改革を推し進めた凄まじいエネルギーの源がここにあったのでしょう。 痛いときには「イタイ、イタイ」と遠慮なく叫び、泣きたい時にはわんわん泣く。 笑う時には、大いに笑って、生きていた。 この飄々とした子規の性格のせいでしょうか、「病床六尺」や「仰臥漫録」を読みますと、 生きているのが不思議なほどの大病人でありながら、なぜか悲壮感を漂わせない。。。 自らの病状の辛さを切々と書いたと思えば、 門下生たちの家賃を書き連ねて比べてみたり、 「大声で呼んでも誰も来なかったので癇癪(かんしゃく)を起こして 牛乳餅などをむさぼって腹が張って苦しい。 外で、ひそひそ話しているのが病床にて聞こえるのに、 病床で大声で呼ぶ声が外に届かぬ理(ことわり)なしと叱ってやった。」 などと偉そうに書いたかと思えば、 「こんなに呼吸が苦しいのが寒気のためとすればこの冬を越すことは甚だ覚束ない。 それは致し方もないことだから運命として置いて医者が期限を明言してくれれば善い もう三ヶ月の運命だとか半年はむつかしいだらうとか言ふてもらひたい者ぢゃ それがきまると病人は我儘や贅沢が言はれて大いに楽になるであらうと思ふ 死ぬるまでにもう一度本膳で御馳走が食ふて見たいなどといふて見たところで 今では誰も取りあはないから困ってしまう もしこれでもう半年の命といふことにでもなったら足のだるいときには十分按摩してもらふて 食ひたいときには本膳でもなんでも望み通りに食はせてもらふて 看病人の手もふやして一挙一動悉(ことごと)く傍(かたわら)よりたすけてもらふて 西洋菓子持て来いといふとまだその言葉の反響が消えぬ内 西洋菓子が山のやうに目の前に出る かん詰持て来いといふと言下にかん詰の山が出来る 何でも彼でも言ふほどの者が畳の縁から湧いて出るといふやうにしてもらふ事が 出来るかもしれない(仰臥漫録より)」 つくつくぼーしつくつくぼーしばかりなり つくつくぼーし明日なきやうに鳴きにけり つくつくぼーし雨の日和のきらひなし 家をめぐりてつくつくぼーし樫林 夕飯やつくつくぼーしやかましき なんというか・・・哀しい中に・・思わず笑ってしまうような感じなのです。 青びょうたんと呼ばれた見た目とは違い、どこか豪傑の風があった子規を 多くの人々が慕ってやってきました。 病床にはいつも人が絶えず、やってきた人々を楽しませようと、 おおいにしゃべり、食べる。 「悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違いで、 悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった。(病床六尺より)」 そんな子規に私は憧れているのです。 35年と数日の短い生涯でしたが、たくさんの仕事をして、たくさんの人を育て、 たくさん旅をして、たくさんのものに感動したり怒ったり・・ そしてたくさん食べて、人々に惜しまれながら去って行った。。 九月十九日 糸瓜忌。 子規の命日です。 子規の墓は東京都北区田端の大龍寺にありますが、 松山には正宗寺(子規堂)に子規の埋髪塔が内藤鳴雪の髭塔と並んでたっています。 「子規居士と鳴雪翁の居たまえる 伊予の御寺の 秋の夕暮れ 与謝野晶子」 この寺に、私の両祖父も眠っています。あの世で「のぼさん(子規)」に柿でももろて食べよろうかな・・なんて思ったりするのです。【雅】 |
下村為山 画。
明治31年新年に開かれた子規庵での句会を40年経た、為山71歳の時、当時を懐かしんで描いたもの。
画の左上が子規。
中心下部で、うつ伏せて一心に「写生」に励む為山自身の姿も描かれています。
この画を見ていると、病身の子規を囲んで、いつも賑やかで楽しそうな皆の様子が伝わってきます。
明治31年新年に開かれた子規庵での句会を40年経た、為山71歳の時、当時を懐かしんで描いたもの。
画の左上が子規。
中心下部で、うつ伏せて一心に「写生」に励む為山自身の姿も描かれています。
この画を見ていると、病身の子規を囲んで、いつも賑やかで楽しそうな皆の様子が伝わってきます。