
「日本藍の美しさ」柳 悦孝氏の言葉と共に

上の写真は日本の「襤褸(らんる)」。庶民の間では「ぼろ」と呼ばれたものです。
藍の着物を毎日毎日すり切れるまで着て、穴があいたら当て布をし、もう着られなくなったら、ぼろを合わせて布団皮にし、それもだめになったら赤ちゃんのオムツにしてそれから雑巾にする。。
そうまで使って、尚味わい深く美しいこのぼろを私は愛してやみません。。
初めて出会った襤褸は夜着でしたが、無造作にバラバラの生地が当て布されたものであるのに、なんとも言えないその色加減と偶然が作り出した意匠の味わい深さ・・。そして更に驚いたのは当て布1枚1枚の美しさでした。
その昔、布地は大変高価であり、庶民は1枚の着物をそれはそれは大切に着たのでしょう。。綿花を育て、糸を紡ぎ、染め、織り、縫う。このすべての過程を人の手でひとつひとつこなしていた時代には、手間をかけたそのモノ達をどんなに尊んだ事でしょうか・・。
日本には、「もったいない」という言葉がありますが、その原点はここにあると思います。
襤褸を見ていますと、作った人、使った人の思いがにじんでいるようでいとおしくてならなくなります。
前回紹介しました村穂久美雄氏の絣展に寄せた柳悦孝(やなぎ よしたか)氏の講演の速記を読んでみると、日本の藍染めの技術は独特な発達をして、海外のものと比べると非常に濃く染めることができた・・ということが分かります。
また、藍染めには様々な段階があって、それぞれの色に名前がつけられていました。
* * *
藍の着物を毎日毎日すり切れるまで着て、穴があいたら当て布をし、もう着られなくなったら、ぼろを合わせて布団皮にし、それもだめになったら赤ちゃんのオムツにしてそれから雑巾にする。。
そうまで使って、尚味わい深く美しいこのぼろを私は愛してやみません。。
初めて出会った襤褸は夜着でしたが、無造作にバラバラの生地が当て布されたものであるのに、なんとも言えないその色加減と偶然が作り出した意匠の味わい深さ・・。そして更に驚いたのは当て布1枚1枚の美しさでした。
その昔、布地は大変高価であり、庶民は1枚の着物をそれはそれは大切に着たのでしょう。。綿花を育て、糸を紡ぎ、染め、織り、縫う。このすべての過程を人の手でひとつひとつこなしていた時代には、手間をかけたそのモノ達をどんなに尊んだ事でしょうか・・。
日本には、「もったいない」という言葉がありますが、その原点はここにあると思います。
襤褸を見ていますと、作った人、使った人の思いがにじんでいるようでいとおしくてならなくなります。
前回紹介しました村穂久美雄氏の絣展に寄せた柳悦孝(やなぎ よしたか)氏の講演の速記を読んでみると、日本の藍染めの技術は独特な発達をして、海外のものと比べると非常に濃く染めることができた・・ということが分かります。
また、藍染めには様々な段階があって、それぞれの色に名前がつけられていました。
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1.褐色(かっしょく) 19~23回染め。黒に近い濃紺。戦国武将が勝色として好んだ。
2.紺(こん) 16~18回染め。赤みをおびた濃藍。絣などによく見られる色。
3.濃縹(こきはなだ) 13~15回染め。やや赤みのある藍。紺と同義に扱うこともある。
4.濃納戸(こいなんど) 10~12回染め。納戸紺など納戸系の色は江戸時代の流行色。
5.縹(はなだ) 9~10回染め。青色、藍染めの標準的な色で中色とも呼ばれた。
6.納戸(なんど) 7~8回染め。赤みのある灰色をおびたやや暗く渋い紺色。
7.薄納戸(うすなんど) 5~7回染め。納戸(室内の物置)の垂れ幕の色からついた名とも。
8.浅縹(あさはなだ) 5~6回染め。薄花田、薄藍とも呼ばれ、秋の襲(かさ)ねの色目にも。
9.濃浅葱(こいあさぎ) 4~5回染め。浅葱系は歌舞伎でも和事に多い優しい色。
10.浅葱(あさぎ) 3~4回染め。浅黄とも書くように黄みがかった薄藍。
11.水浅葱(みずあさぎ) 2~3回染め。水浅黄とも書く。下染めの色として用いられる。
12.瓶覗(かめのぞき) 1回染め。もっとも薄い藍にくぐらせた白に近い藍色。
”きものに強くなる”世界文化社より抜粋
古裂れに見られる洗いざらしの色目の美しさは、決して狙って作れるものではありません。
「本来、藍というものは、摩擦する時の堅牢度からすると必ずしもそれほど丈夫ではありません。ですから、洗えばその表面がすれてまいります。---中略--今出来の裂れをここまで使い込んだら随分惨めにはげてしまうでしょう。それでつまり昔の紺絣は使い手が、ここまでの美しさを育ててきたともいえるわけです。」
「このあいだからお互いにいろいろな話をしているのですけれども、民芸の問題といういうものも今みたいなこういう社会や、こういう経済状態のときにわざわざ手作りの仕事なんかに、大騒ぎをするのは、おかしいじゃないか。それを一体どういうふうに考えたらいいのか、という問題になりますが、私が考えますのに、とうていこれが生活の主流をなすことはできないだろうと思いますけれども、使えば使うほど、とにかくおしめになり雑巾になって、なおそれが使われて、どうしようもなくなったものまで、とにかく私たちの心をつかまえて放さないという、そういう心の生活と申しますか、そういう今の世の中にない問題というのもがあるのだということは、少なくとも、手作りの美しさを残すという働きのためには、たいへん強い力があると思うのです。けれどもそれだけではだめでありましょう。もちろん普段使うものがよくなり、それがもっとたくさんつくられるようにしたいものだとは思います。だからといってそれをいい加減に妥協して、いい加減なものでごまかしていくくらいなら、やはり数は少なくても、これだけ訴える力のあるものの純粋性を尊ぶべきではないかという気も一方にするわけです。その辺のところは、私どもにとって非常なジレンマがあるわけです。」
(抜粋部分は原文そのままに掲載いたしました。)
